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野生に対する憧れ
野生で生活する生命は、与えられた環境下で、 自らの能力により生命を繋ぐ。彼らが言葉を持つとしても、 我々の使う「サバイバル」という言葉はないだろう。「 サバイバル」とは、我々にとって、 文明と接しない厳しい環境下で生命を繋ぐことを意味するが、 元々野生で生活している生命にとっては、それは「日常」 でしかないからだ。
もちろん、 人間でも終戦を知らずにジャングルで30年も生活した旧日本兵や 、40年も山で一人で暮らした洞窟おじさんなど、 信じられないほどのサバイバル能力を持った逞しい人々もいる。 その様な環境に押し込まれれば、 サバイバル生活をせざるを得ないのだろうが、果たして、 誰もが生活できるのだろうか? 果たして生き残ることはできるのだろうか?
自信を持って「どんな環境下でも生き残る!」 とは決して言えない。そう言えることは、やはり憧れである。
人類にとってのサバイバル能力
人類はかつて、狩猟・採取し生活していたが、それは農耕・ 牧畜へと変わり、産業革命を経て、豊かな文明社会を創り上げた。 先進国においては、基本的に食べるものに困ることはない。 野山に自生する植物はどれを食べられるのか? 魚や動物をどうしたら捕まえられるのか? そんな事を知らずとも食べていける。完全分業制であり、 自分の出来る何らかの貢献さえしていれば、 生きていけるのである。それが人類が創り上げた社会だ。 そしてこれが、我々にとってのサバイバル能力の代替えである。 牙や爪が無くても、鼻が効かなくても、体毛が退化しても、 社会の中では不自由なく生きて行ける。
そういった意味からは、社会において、 それをコントロールする能力、 それに対し大きな影響力を持つ能力に長ける人間が、 より生命を繋ぐ能力が高いとも言える。
社会の行方
人間社会は、短期間に急激に高度になり過ぎている様にも感じる。 人間の進化には時間がかかるため、 社会の高度化について行けなくなり始めていないだろうか? あまりにも複雑化しすぎ、あまりにもスピードを求め、 人間の能力ではこなせない事柄を人間が求め始めている。 産業用ロボットは20年以上前から働いているが、とうとう、 人工知能まで現実味を帯び始めた。
社会はそれを構成する人々の意思が進む方向を決めて行くが、 その社会の意思は個人個人の意思とは異なる場合もある。 まるで社会は自らの意思を持ち、がどこへ向かうのかは、 個人的な感覚からは計り知れないものである様にも感じる。 結果的に、 個人が本能的に求める社会のあり方とは違う方向へ向かい始めたの ではないだろうか?その向かう先には、 本能的に危うさを感じはしないだろうか?
本能の正当性
複雑化しストレスの多い社会だが、蒼く広大な空、 翠に萌える山々、碧くすき透る海原、 これらの前では幸せを感じる。その中に身を置けば、安心する。 その反面、自然の雄大さには、自分の小ささと比較した時に、 手に負えない勇猛さも感じる。
そして、その自然を前にして、 逞しく生きていかなければならないと思う。 その手法が高度な社会の構築か?と問われると、答えに困ってしまう。 理論的にはYesであり、本能的にはNoと直感する。 何が正解なのかは、結果が示されるまでは分からない。
人間は、 自分で考えて行動していると錯覚してしまいがちであるが、睡眠、 呼吸や摂食の欲求、消化、吸収、 血液の循環による養分や酸素等の運搬、傷の修復など、身体・ 生命の維持は本能によって司られ、 どのようなパートナーを求めるのか、 どのようやことで社会に貢献したいのか、 社会の中でどのような地位を占めたいのか、 社会の最小単位である家族を守りたいと思う気持ち、 自分の生命を繋ぎたいと思う気持ち、 これらの行動の元となる欲求も本能の指示に基づくものである。 本能による根本的な人間の制御は多岐に渡っており、 意思に任され、意思が自由にできる部分は、 ごく表面的な事柄でしかないのだ。
そう考えると、本能には従うべきである。
このブログ「Wild Life」について
現状で我々はWildlife(野性の生命)にはなり得ない。 しかし、 本能的に求める野生のへの憧れを可能な限り満たしていけるWil d(野生的)なLife(生活)を送りたい。このブログは、 そんな憧れを満たす、ままごとの様な生活を記している。 本能に導かれるままに。
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